Jacobsen's experiments in organic form are seen in this chair. He uses a moulded fibreglass shell with foam upholstery to create a smooth, womb-like cup on an aluminium base.

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放映から10年が経つ、日本の歴史的アニメーション作品
「新世紀 エヴァンゲリオン」

すでに、私の中では宗教と化し、学問と化しているこの作品。
このブログでは(ある時期を除いて)、
敢えてこのネタには触れないようにしてきました。
なにせ、これについて書き出すと、イロイロヤバイもんで。
体裁とか、イメージとか。正直、読む人がヒクと。

しかし、ま、10周年を記念して、ひとつ、自分の言葉を連ねてみるか!
と構想を始めたのは、もう3ヶ月以上前。

まとまらないこと限りなし。

しかし、まぁ、ちょっと考えたことを
走り書きとして、残しておきたい。





さて、話しを書き連ねる前提として、あることに気を止めて欲しい。
これは、私がココで論述する時に常に主張している(と思っている)こと。

 ”相対性”だ。

一般相対性理論に見られるように、光速などの特殊事例を除いて
全ての事物事柄は、相対的にしか観念し得ない。

私の携帯(premini)が「小さい」と感じるのは
相対として他が「大きい」からに過ぎない。
善と悪すらも、相対的概念である。



ところで。

頭の中で、あるイメージを作って欲しい。
1、まず、真っ白な空間に、黒い点を思い描く。
2、続いて、上のイメージは消して、代わりに黒線で円をイメージして欲しい。
3、その円線の周りに、円より大きく、黒線で四角を思い描いていただけないだろうか。

さて、私たちの頭の中では(1)で点が、
(2)で円形【CDのようなイメージ】ができたのではなかろうか。

しかし、(3)では、円盤のイメージと周りの四角により、先とは違うイメージを持ちうる。
(3)では、円盤をイメージしうると共に、
視点を変えると、四角い紙から円形に切り抜いたイメージも持てるであろう。

それでは、それと同じ感覚で(2)についても、円形以外の存在を
(1)では、点以外の存在を認知しえるのではなかろうか。

そう、当初、単なる点だった存在が、
視点を変えることにより、点以外の存在という観点を持ちうることとなる。

これが、ココにいう、ある意味での相対性だ。



それでは(2)の円の内側を、「自分」だと考えていただきたい。
それでは、それ以外の存在とは・・・そう、「他人」だ。
自分以外の存在が他人であることは認知しえよう。
そうであるならば、逆も言えるはずだ。

 ”他人以外が自分である”・・・・と


そうであるならば、中空に思い浮かべた円を形作る線は
自分を規定しているのであろうか?それとも、他人を規定しているのであろうか?

ココでいう、円(ないし円以外)を形作る線こそが、
この作品に登場する「ATフィールド」に他ならない。



それでは、話を少し作品の中に移していこう。

映画「Air/まごころを、君に」をはじめとするいくつかの回で
”デストルドー”という言葉が出てくる。
これは、簡単に言うと元始への回帰を願う願望であり
それはニアリーイコール「死の願望」と言われます。
これに対をなす言葉として”リビドー”がある。
これは逆に「生の願望」と言いえるだろう。

人は常にリビドーとデストルドーを併せ持っており
時にそれは、自己の内側に向けられ
あるいは外に向けられたりいしつつ、自己を保っていると観念できる。

つまり、円の内側から外に向けられて円形を保つとともに
その他も自己に向けて他も自を保とうとし、それぞれが均衡を持てているはず。

逆に、外向きの力は、他から押し返されて、ある程度以上広がりえない。
しかし、内向きの力は、他からの力と相まって、内向きに崩壊しえる。
内向きのリビドーは例えばナルシシズムであり
内向きのデストルドーは内罰的と考えられる。
そして、内向きの崩壊とは、すなわち自己が保てない状態
自我の崩壊を意味する。

ところで、あなたは「自己」とは何か疑問に感じたことはないか?
私はある。
ところが、困ったことに、自分では自分が認識できない。
なぜなら、それは「相対性」だから。
他人がいるからこそ、自分が認識できるのだ。
そして、それは、外からの情報ということになってしまう・・・。

自分で自分の円が認識し得ないなら、自分を認識する方法は
”他人以外の存在が自分である”と考えるしかない。
しかし、先に示したとおり、
他は他を保つために外側に(自から見ると内側に)力をかけている。
すなわち、自分にとって他人とは常に圧力をかけてくる存在と写るのだ。

外からの自己に対する矢印を、自己の中で処理しようとすると
それは、すなわち自己の内側にデストルドー/リビドーを向けることになりうる。

自己を認識するには、他人を圧力として捕らえなければならないが
圧力として捕らえるだけでは、内の力に耐えられず自我の崩壊につながる。
そこで、なんとか、形を保つために外への圧力を保たなければならない。
ココに、自と他の敵対関係が生じる。

 ”葛藤” ”ジレンマ” だ。

自分が認識できず、外からの情報に頼りすぎると
逆に、自己を保つために必要以上に外に対し力を加えてしまい、
それは、あるいみ、「反抗」であり反抗期の特徴ではなかろうか、
と、そう思う。




さて、長々とそれっぽいことを書いてきたけど、ちょっとネタバレに入るので。。。


まず、自己を認識し得なくても、自己が保てないわけではない。
むしろ自己を認識しようとする必要すらない。
それは
 ”自信” に他ならない。
自信は盲信に他ならないこともあるが、
自信は、自己を認識しようとしないかもしれないし
自信は、自己を認識するために「他人以外が自分」とは考えない。
自信がないから、人の意見に左右される。
そういう人を、自分を持っていない、、、という風に表現するのは
ある意味において、言い得て妙、、、なわけだ。
しかし・・・自信のない人が自分を持とうとすると
それは、長々書き連ねたように、内向きに働き、負の連鎖が生じる。


ちなみに、自信のある人で、自己の存在というものに疑問を持ってない人は
この作品を見ても、過剰な心理描写などに辟易するだろう。
楽しみ方は、たくさん張り巡らされた伏線を解いていくことになろう。
しかし、逆の人は、なんら伏線を理解することなく、共感できるだろう。
映画の最後の「キモチワルイ・・・」も、意味不明でも理解できるのだ。
私は、、、両方体験した。



これが理解できれば、エヴァという作品の半分は分かったことになると思う。
あとは、難解な伏線をホドクという作業だが、
それについては、やめておくことにする。



p.s.
 これがすべて”アイデンティティ”の説明だったことに
 今朝、ようやく気が付いたよ。
 辞書で調べると、こんな感じだったw
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テーマ:エヴァンゲリオン - ジャンル:アニメ・コミック


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